予後が悪い
なんでこんなに予後が悪いのかなあ。と、きょう家に帰る道中ふとおもった。
発達障害だけではこんなに鬱屈しないんだよね。おなじ事業所の利用者さんを見ていておもう。
やっぱり生育環境からくるトラウマかそれにちかいものが影響しているんだろう。トラウマ的なものがない発達障害はカラッとしていて明るい。
わたしは毎日ことあるごとにじぶんを責めたりして、落ち込んでいる。底無しの沼地にはまりこんだようにズブズブと落ちてゆくじぶんを止められない。
たぶんわたしはじぶんでじぶんを傷つけている。そうしてむだにすり傷を増やしている。毎日毎日じぶんの皮膚をおろし金ですりおろしているような感覚。とても痛いし、ばかだとおもう。
その原因に、もし、トラウマ(こころの傷)や認知の歪みのようなものがあるのなら、なるべくなら治したほうがいい。それは当然で、でもそういうものってほんとうに癒せるのかどうかわたしは疑問だ。
少なくとも現代の医薬では治すことはできない、よって臨床心理(カウンセリング)頼みになるんだろうけど、わたしはわりとカウンセリングというものをそもそも信用していない。
カウンセラーもピンキリだし。
民間資格のみの自称カウンセラーは論外だけど、ちゃんと院まで行って国家資格取ったからって、それだけで魔法のように心理的な傷を治癒するなんてできるはずがない。とわたしはおもってしまう。
というか、わたしのこれは、ほんとうにトラウマのせいなんだろうか?
わたしは気づいたときから、小学生のときから社会で生きるのがしんどかったので、これはもう持って生まれた性質なのかもしれない。
治すとか癒すというよりは、直す、つまり矯正にちかいのかもしれない。社会に適合できるようにじぶんを矯正するか、もしくは完全に社会の枠と合わないかたちのまま、あちこちぶつけながら痛みにこらえて生きるか。
生きやすくなるなら矯正したほうがいい気もするけど、でもそうして矯正することはなにか、じぶん自身を否定することであるようなかんじもする。
そもそも前提がおかしい。
社会という枠組み自体に欠陥があるのに、その枠組みにむりやりじぶんを適合させなくちゃいけないのか。
それはなにか……映画『カッコーの巣の上で』に出てきた、ロボトミー手術が連想される。
ああ、わたしが痛みをかんじているのはむしろ、そうか。
社会にじぶんを適合させようとしているからかもしれない。
社会の枠に入りきらないのは、わたしという人間にバリ(プラスチックや金属加工の際にできる不必要な突起)のようなもの(=個性or障害?)が残っているせい。
でもそれって削り取らなきゃいけないものなのか。
わたしはわたしのわずかなバリさえも愛したいのに。
でもそのバリを許せないのも、たぶんわたし自身なんだろうな。
